お互い共感して居たからこそ永ちゃんとジョニーとの絆

今見ていても、さっぱりしている永ちゃんですから、何から何まで羨ましがられます。

1ヵ月後解散、それから楽器店でまた募集の張り紙を貼ってなかなか良い人材が集まらなかった、

ただ1人残った木原さんまでも、辞める形になって、永ちゃんは1人で悩んだそうです。

1972年最後に横浜の大学のライブが最後になってしまったのです。

でもそこで諦めない永ちゃんは、また楽器屋さんで貼り紙をして「ビートルズやロックンロール好き求む」の貼り紙から人伝で、知り会った内海さんを口説き、ディスコのグルッペでジョニーとは会った事はもうあり、電話がありそれから何時間か話をしてキャロル結成に至ったみたいです。

1972年8月には、4人で横浜伊勢崎町のピーナツでビートルズのコピーバンドとして、初演奏すると注目されて、キャバレーの浦島などにも出演できたそうです。

1975年4月13日日比谷野外音楽室解散ライブ(グッバイ、キャロル) 特殊硬化用の火がセットに燃え移り看板電飾が焼け崩れるハプニングがあった。

演出だと気がつかない人もいたほどで大惨事に、ならないで良かったです。

す。

ジョニーも詩を作り良い声でとても素敵でしたね。

ずっといると、いろんな事がありますし、自分と違う面を持っていると羨ましくなりますね。

さらに2015年4月、ニュースサイト『ORICON STYLE』のインタビューにジョニーさんの長男でミュージシャン・ケンイチ大倉が応じ、両者の確執は「ない」と告白。

その理由として、ジョニーさんの闘病時に矢沢から激励の花が届き、ジョニーさんはうれしそうに「ずっと花を眺めてました」と打ち明けた。また、両者を「本当の兄弟のようだった」と語り、近親者のみで執り行われた葬儀にも矢沢から花が届いたとも明かした。

 冒頭番組で矢沢は、2004年に全額完済をした際、行きつけの店でひとり祝杯を上げ「最高の酒だった」と笑顔を見せた。そのときと同じくらい、ジョニーさんと交わした酒も最高だったに違いない。

永ちゃんは、ジョニーを片時も忘れず見守って居たんですね。

お互いにリーダー的な二人が若い頃だったし、息苦しさ的ものもあだけれど、共感はしているんです。

でも二人で飲んだ時にはスッキリして居たに違いないですね。永ちゃんの心が寛大なので、私は素敵で益々好きになります。