日本のロック界の重鎮、矢沢永吉。「成り上がり」を地で行く彼の成功の裏には、幼少期の貧困、35億円の借金危機、そして何より二人の妻の存在がありました。永ちゃんの波乱万丈の人生を支えた二人の女性と、彼の原動力について探ります。
困難な出発点:幼少期と音楽への道
矢沢永吉は幼い頃から苦労の連続でした。両親を早くに亡くし、生活保護で暮らす祖母に引き取られ、一部屋の小さな家で育ちました。激動の時代に広島を出て横浜にたどり着いた彼は、まずはディスコで働いて生計を立てることになります。
この時期、運命的な出会いが待っていました。
最初の結婚:支えとなったすみこさん
横浜で働き始めた矢沢は、そこで最初の妻となるすみこさんと出会います。一目惚れで即決だったといわれ、同棲を経て結婚。川崎の飲食店の上のアパートで暮らし始めました。
元銀行員だったすみこさんは、矢沢の下積み時代を支え、彼の音楽活動の強力な味方となりました。3人の子供たちを育てながらの生活は決して楽ではなく、矢沢は家族を養うため必死で働きました。時には革ジャンを売ることもあったといいます。
すみこさんとの関係は、矢沢にとって幸せの全盛期を築く基盤となりました。彼女は単なる妻以上の存在で、矢沢の音楽活動においても重要な役割を果たしていたといえるでしょう。
マリアさんとの出会いと新たな人生
しかし、すみこさんとの関係は次第に悪化。1978年頃、矢沢は現在の妻であるマリアさんと知り合います。最初は相談相手だったとされるマリアさんと矢沢は、次第に親密な関係となりました。
二人の愛の巣となったのは表参道にある「ビラ・ビアンカ」。目立つ場所にあったため、やがて二人の関係は週刊誌に取り上げられることになります。
35億円の借金危機とマリアさんの支え
矢沢永吉の人生における最大の危機は、いわゆる「オーストラリア35億持ち逃げ事件」でした。オーストラリア史上2番目に巨額だったというこの借金は、彼のキャリアを危機に陥れました。
メディアでは1998年に借金が発覚し、5年で返済したと報じられていますが、実際は1988年から約15年かけて返済したとされています。単純計算で年間2億4000万円、税金や生活費を考えると年間最低6億円は稼がなければならない状況でした。
この危機的状況で、マリアさんの存在は矢沢にとって大きな支えとなりました。借金を背負った後、お酒に逃げる時期もあった矢沢をマリアさんは励まし、再起への道を共に歩みました。
借金返済がもたらした現在の成功モデル
困難な状況からの脱出を図るため、矢沢は仕事への取り組み方を変えました。長いコンサートツアーやグッズの売り方、映像作品の販売方法など、現在の「矢沢永吉ビジネスモデル」の基盤はこの時期に形成されたといえます。
借金返済のために構築した高い収益モデルは、危機を脱した後も彼の成功を支え続けています。この意味で、あの危機は現在の矢沢永吉を作ったきっかけともいえるでしょう。
すみこさんとの別れと家族の絆
矢沢はマリアさんとの新たな人生を選びましたが、すみこさんと子供たちとの交流は続けていたといわれています。山梨県山中湖にあった家を週末に訪れるなど、家族との絆を大切にしていました。
すみこさんは数年前に亡くなったとの噂もありますが、公式な発表はありません。仮に事実であれば、58歳という若さでの死去となります。この時期、矢沢はメディアを避け、ライブスケジュールにも変更があったといわれています。
二人の妻が作った「永ちゃん」
矢沢永吉の波乱万丈の人生において、二人の妻の存在は単なるパートナー以上のものでした。すみこさんは下積み時代から彼を支え、困難な時期を共に乗り越えました。マリアさんは彼が最大の危機に直面したときに、再起への原動力を与えました。
現在の矢沢永吉の成功は、彼自身の才能と努力はもちろん、この二人の女性の支えがあってこそ実現したものといえるでしょう。
子供たちも順調に成長し、あやこさんは歯科医になるなど、矢沢家は困難を乗り越え、幸せな家族の形を築いています。すみこさんも天国から見守っていることでしょう。
矢沢永吉の歌にある「好きな仕事があるからこそ」という言葉には、二人の妻の大きな愛の支えがあってこそ生まれた真実が込められているのかもしれません。